敷島の大和心を問われたなら。本居宣長が令和に遺した、日本人の魂の在り処

朝日の中に山桜が匂う。その光景を前にして、言葉を失ったことのある日本人は、少なくないはずだ。説明しようとした瞬間に、何かが逃げていく。なぜ美しいのかと問われても、うまく答えられない。しかしその「うまく答えられない」という感覚の中にこそ、日本人の魂の核心がある、と宮司は思う。二百年以上前に、その感覚を一首の歌に結晶させた人物がいた。江戸時代の国学者、本居宣長である。

敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂う 山桜花

大和心とは何か、と誰かに問われたならば、朝日の光の中に香り立つ山桜の花、そのものだと答えよう。この一首の中に、宣長の生涯が凝縮されている。難解な理屈を並べるのではなく、一輪の山桜を指し示す。その簡潔さの背後に、三十五年という気の遠くなるような歳月の思索が潜んでいることを、宮司はいつも忘れないようにしている。

本居宣長(1730〜1801)は、伊勢国松坂(現・三重県松阪市)の木綿商の家に生まれた。家業の不振と商家に不向きな自らの気質を見定め、母の決断によって医学修行のために京都へ遊学。そこで漢学を学ぶ傍ら、日本古典の言葉の世界に開眼していく。やがて国学の大家・賀茂真淵と出会い、日本最古の歴史書である『古事記』の研究を託される。それ以来、宣長は医業を営みながら、三十五年の歳月をかけて『古事記伝』全四十四巻を書き上げた。これは単なる学術的な偉業ではない。一人の人間が、自らの全生涯を懸けて、この国の魂の根を掘り起こそうとした、壮絶な営みであった。

宮司は、神職の修行を重ねる中で、何度となく『古事記伝』と向き合ってきた。直階・権正階・正階・明階と、神職の資格を一段一段積み上げていく過程において、宣長の文章と繰り返し対座した。その文章は、単に古代の物語を解説するものではなかった。この国がどこから来て、何者であり、いかなる精神の上に立っているのかを、静かに、しかし揺るぎない確信をもって語りかけてくるものであった。

宣長がその生涯を通じて語り続けたのは、一つのことに尽きる。日本という国には、他の国が失ってしまった「真実の道」が、今も正しく伝わっているということだ。彼はその著『玉くしげ』の中でこう記している。真実の道は、天地の間にただ一筋に行き渡るものであるが、その道が正しく伝わっているのは、この皇国だけである。異国では太古よりその言い伝えを失い、代わりに人の知恵で作り上げた様々な理屈をもって、道と称してきた。しかしそれらはすべて末梢の枝葉であり、根本の真実ではない、と。この主張の背後にあるのは、排他的な優越感ではない。宣長が恐れたのは、日本人自身が自国の根を忘れ、異国の思想の枠組みで自らを測り始めることであった。

宮司には、この問いが他人事に思えない。令和の今、私たちはどれほど自国の精神的な根に繋がっているだろうか。経済の指標、外国との比較、海外の評価。私たちが自分たちを測る物差しは、いつの間にか外からもたらされたものばかりになってはいないか。宣長が懸念したこと、すなわち「根を忘れて枝葉だけを繁らせようとする」ありようが、二百年の時を経た今、むしろ深刻な形で現出しているのではないかと、宮司は思わずにいられない。

宣長と吉野との縁もまた、深いものであった。宣長の父母は、吉野の水分神社(みくまりじんじゃ)に子授けを祈願し、その祈りが叶って生まれた子が宣長であったという。また彼は『菅笠日記』に、吉水神社を訪れた折の記録を残している。後醍醐天皇が御座されていた玉座の間に立ったとき、宣長は涙を流したという。天皇がこれほど寂しい地に在って、何ほどの無念を抱かれたことか。その思いが、立ち上がることを許さなかったと、彼は記している。宮司はこの一節を読むたびに、胸が締めつけられる。宣長の涙は、単なる感傷ではなかった。南朝の御代に体現された、日本の魂への深い共感の涙であった。

宣長はまた、こう言い遺している。「人の行うべきかぎりを行うが人の道にして、このことの成ると成らざるとは人の力の及ばざるところぞ。」自分がなすべきことに全力を尽くすのが人の道であり、それが成るか成らないかは、神の御手に委ねるほかない、と。この言葉は、三十五年という長大な歳月をかけて一つの仕事をやり遂げた男の口から出てこそ、重みがある。結果を焦らず、評価を求めず、ただひたすら己の道を掘り続けた宣長の生き方そのものが、この言葉の最良の注釈である。

鈴を愛し、山桜を愛した宣長は、自らの書斎を「鈴屋」と名付けた。そして山室山にある奥墓には、遺言によって山桜が植えられた。学者として生き、医者として生き、しかしその魂の深いところで、常に山桜の花と共にあった人。言葉ではなく、花そのものを指し示すことで、大和心の在り処を伝えようとした人。宣長の生涯は、それ自体が一首の歌であったと、宮司には思われる。

令和の今、私たちは改めて問われている。大和心とは何か、と。宣長はその問いに対して、難解な哲学を返さなかった。ただ静かに、朝日の中に匂い立つ山桜を指し示した。その指の先をたどることができるかどうか。それが、今を生きる日本人一人一人に問われていることではないか。根を持つ民族は、嵐の中でも倒れない。根を忘れた民族は、穏やかな風の中でも、静かに枯れていく。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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