日本の誇りを取り戻すとき

日本という国を思うとき、まず宮司の胸に浮かぶのは、長い歴史の中で一度も断ち切られることなく受け継がれてきた祈りの姿である。
「日本の誇り」とは、単なる標語ではない。そこには、天皇陛下・皇后陛下・御皇室を仰ぎ、三種の神器を尊び、日の丸を掲げ、君が代を歌い、教育勅語に道徳の根を見、古事記・日本書紀に民族の記憶を読み、國体を守り、靖国の英霊に頭を垂れるという、日本人の精神の骨格が示されている。
誇りとは、他国を見下す心ではない。誇りとは、先人から受け継いだものに感謝し、自らもまた次の世代へ恥じぬものを手渡そうとする覚悟である。
日本の国柄は、力によって民を押さえるものではなかった。君民一如とは、天皇と国民が対立する関係ではなく、祈りと勤めによって結ばれる姿である。天皇陛下は民の幸せを祈られ、民はその大御心に感謝し、それぞれの場で家を守り、仕事を尽くし、国を支えてきた。そこに日本の静かな強さがある。
三種の神器は、単なる古代の宝物ではない。鏡は己を映し、剣は正しきを守る覚悟を示し、勾玉は和とつながりを象徴する。日本人が本来持っていた徳とは、勝ち誇る強さではなく、身を正し、弱きものを守り、和を乱さぬよう己を慎む強さであった。
日の丸は、朝ごとに昇る太陽のように、清らかに生きよという教えである。君が代は、長く平らかに国が続くことを願う祈りの歌である。そこには騒がしい主張ではなく、永続を願う静かな心がある。
教育勅語もまた、過去の遺物として片づけるべきものではない。父母を敬い、兄弟仲良く、夫婦相和し、友を信じ、学び、職務に励み、公共のために尽くす。そこに説かれている道徳の多くは、今の時代にこそ必要な人間の土台である。知識ばかりが増え、心の置きどころを失った社会に、もう一度「人としてどう生きるか」を問う声が必要である。
古事記・日本書紀は、日本人の魂の古里である。神話を失った民族は、自分がどこから来て、何を守り、どこへ向かうのかを見失う。神話とは作り話ではない。祖先が自然を畏れ、命に感謝し、共同体を守りながら生きた記憶の結晶である。子供たちに神話を語ることは、過去へ戻ることではない。未来へ根を張ることである。
靖国の英霊に手を合わせることも、戦争を美化するためではない。命を捧げた人々の苦しみ、家族の涙、国を思った誠に向き合うためである。平和とは、忘却の上に成り立つものではない。犠牲を忘れず、二度と国を失わぬよう、正しい歴史観と守る力と深い祈りを持つところに、本当の平和がある。
これからの日本に必要なのは、経済の再生だけではない。技術の発展だけでもない。まず日本人が日本を信じ直すことである。
家庭では、親が子に感謝と礼節を教えること。学校では、祖国の歴史を誇りと反省の両面から正しく伝えること。地域では、神社や祭りや言葉や作法を守ること。政治は、国民の暮らしを守ると同時に、国家百年の大計を語ること。そして一人ひとりは、「ありがとう」「おかげさま」「私がします」という心を日々の中で実践すること。
日本は、古きものを守るだけの国ではない。古きものに根を下ろすからこそ、新しきものを正しく生み出せる国である。
宮司が語る「日本の誇り」は、過去を懐かしむための言葉ではない。それは、未来の日本人へ向けた灯火である。
日本よ、誇りを取り戻せ。
その誇りは、声高な怒りではなく、静かな祈りの中にある。
その誇りは、排他ではなく、感謝と責任の中にある。
その誇りは、祖先を敬い、子孫を思い、今を正しく生きる心の中にある。
この国に生まれたことを感謝し、この国を守り育てる務めを自覚するとき、日本は再び、世界に対して胸を張れる美しい国となる。
