8月15日、高市総理には靖國神社に参詣していただきたい

8月15日が近づいてきた。宮司は今年も靖國神社に参る。仲間たちと共に靖國の杜に立ち、國家のために尊い1命を捧げられた英霊に、感謝と敬意と、誠の哀悼を捧げるつもりである。
そして宮司には、今年の8月15日にどうしても実現していただきたいことがある。
高市早苗内閣総理大臣の靖國神社参詣である。
宮司は、高市総理には何が何でも御自身の足で靖國神社に参られ、英霊の御前に立ち、玉串を捧げていただきたいと願っている。これは政治的な駆け引きの話ではない。外交上の損得の話でもない。國家のために命を捧げた先人に対して、今を生きる日本人がどのような心を持つのかという、日本人としての「誠」の問題である。
今日、我々がこうして家族と食卓を囲み、自由に仕事をし、子供たちの笑顔を見ながら、平和な日常を送ることができる。その礎には、戦火の中で祖国を思い、父母を思い、妻や子を思いながら散っていった多くの英霊の存在がある。そのことを忘れてはならない。
英霊は、今の日本人に感謝してもらうために戦ったのではない。しかし、だからこそ、後に生きる我々が忘れてはならないのである。
「ありがとうございました」
そのひと言を申し上げるために靖國へ参る。それでよいのである。難しい理屈はいらない。先人の犠牲の上に今日の自分たちがあることを知り、頭を垂れる。これが日本人としての素直な心ではないか。
これまで総理大臣の靖國参拝となると、隣国がどう言う、外国がどう見る、新聞がどう書く、テレビがどう批判するという話ばかりが先に立ってきた。しかし、宮司は思う。なぜ、日本の総理大臣が日本の英霊に祈りを捧げることについて、外国の顔色を第1に考えなければならないのか。
靖國神社は、國家のために亡くなられた方々をお祀りする神社である。靖國神社自身も、その御祭神が祖国の平和を祈り、家族の行末を案じながら尊い命を捧げられたことを伝えている。
英霊への慰霊と顕彰は、日本人自身が行うべきことである。
新聞が何を書こうともよい。テレビが何を言おうともよい。外国政府が何を言おうとも、それによって日本人が祖先への感謝を忘れてよい理由にはならない。國家には國家として守るべき尊厳がある。そして人間には、人間として忘れてはならない恩がある。
「受けた恩を忘れない」
これは人として最も基本的な道徳である。
個人なら恩人に頭を下げる。それと同じように、國家にもまた、先人に対して頭を下げなければならない時がある。8月15日は、まさにその日である。
昭和100年という大きな節目を越え、戦争を直接知る世代がますます少なくなった今だからこそ、英霊への感謝を次の世代へ伝えていかなければならない。記憶は、放っておけば薄れていく。しかし、感謝の心まで薄れさせてはならない。
今年、宮司にとって大きな出来事があった。長年願い続けてきた安倍晋三元総理の銅像を、ようやく建立することができた。安倍総理が生前、強い思いを寄せておられた靖國。そして今、その昭恵夫人が靖國神社崇敬奉賛会の会長に就任された。
不思議な御縁である。
宮司としても、じっとしてはいられない。
今年の8月15日は靖國神社に参り、英霊に手を合わせたい。そして御縁がかなうならば、昭恵さんにも御挨拶申し上げたいと思っている。
そして、もうひとつ。
靖國の杜に、高市総理の姿があることを願う。
総理大臣だから参るのではない。1人の日本人として参る。そして國家を代表する立場にある者として、英霊に対して深く頭を垂れる。その姿を国民が目にしたとき、多くの日本人の胸に眠っていたものが呼び覚まされるのではないか。
祖国とは何か。
先人とは何か。
感謝とは何か。
そして、自分たちはこの日本を次の世代へどのように残していくのか。
靖國参詣とは、過去だけを見つめることではない。過去に感謝し、現在を正しく生き、未来への責任を自覚することである。
宮司はそう信じている。
英霊が命を懸けて守ろうとした日本を、我々はさらに立派な國にして次の世代へ渡さなければならない。それこそが、英霊への最大の恩返しである。
8月15日。
宮司も靖國へ参る。
高市総理。
どうか靖國神社へお参りいただきたい。
外国のためでもない。新聞のためでもない。支持率のためでもない。
ただ、祖国日本のために。
そして、靖國の杜に鎮まる英霊に、日本國の総理大臣として、まことの感謝と敬意を捧げていただきたい。
それが宮司の、強い、強い願いである。
