焔の如く、中今を生きる。英霊への感謝と誓い

わが胸の 沈まぬ太陽 抱きしめて
焔の如く 中今を飛ぶ
佐藤素心
宮司は、この短歌に「今を生きる覚悟」を込めた。
沈まぬ太陽とは、単なる希望ではない。どれほど時代が暗くとも、胸の奥に決して消してはならない祖国への思いであり、先人から受け継いだ大和魂である。そして「中今」とは、過去でも未来でもない。神道が大切にしてきた、まさに今この瞬間を、命いっぱいに生きるということである。
大東亜戦争では、数え切れないほど多くの若者が祖国のために命を捧げた。彼らにも父母がいた。妻がいた。幼い子供がいた。故郷があり、夢があり、生きて帰りたいという願いがあった。それでも、自分がここで踏みとどまらなければ祖国が危うい、家族が危ういと信じ、それぞれの持ち場で最後まで務めを果たした。
宮司は思う。
彼らは死ぬために生きたのではない。
愛する者を生かすために、自らの命を差し出したのである。
今の日本に生きる我々は、その事実を決して忘れてはならない。街を自由に歩けること。家族と食卓を囲めること。好きな仕事をし、好きな言葉を語り、子や孫の未来を思い描けること。こうした平穏な日常は、最初から当然に与えられていたものではない。
今日の日本は、先人たちの労苦と犠牲の上にある。
だからこそ宮司は、「國家のため一命を捧げた英霊に、感謝と敬意の誠を表さない國は滅びる」と申し上げたい。
これは戦争を賛美する言葉ではない。戦争を繰り返せという意味でもない。国のため、家族のために命を捧げた人々を忘れ、自分たちだけの力で今日の繁栄を築いたかのように思い上がる国家に、未来はないということである。
人間も同じだ。親への感謝を失い、祖先への敬意を失い、自分1人で生きてきたと思い始めたとき、その人の心は崩れていく。国家もまた、先人への感謝を失えば、その根を失う。
根のない大木は、どれほど枝葉が繁っていても、やがて倒れる。
祖国とは、今生きている我々だけのものではない。遠い祖先から受け継ぎ、今を生きる者が預かり、まだ見ぬ子孫へ渡していくものである。英霊もまた、その長い日本の命をつなぐために、自らの命を捧げられた。
宮司は、靖国神社に参拝することも、この大恩に感謝するためだと思っている。そこに他国への憎しみはない。あるのは、ただ感謝と慰霊の心である。
「あなた方が守ろうとした日本を、私たちは守ります」
「あなた方から受け継いだこの国を、さらに立派な国として次代へ渡します」
そう申し上げるために、頭を垂れるのである。
しかし、感謝とは言葉だけでは足りない。
英霊に感謝すると言いながら、自分の務めを怠る。祖国を愛すると言いながら、自分の利益だけを追う。それでは、本当の慰霊にはならない。今を生きる我々が、それぞれの持ち場で立派に生きることこそ、英霊への最大の恩返しなのである。
父は父として、母は母として、教師は教師として、政治家は政治家として、商人は商人として、職人は職人として、自分に与えられた務めを果たす。誰かに褒められるためではない。日本という国を次の世代へつなぐために、自分の責任を果たす。
それが「中今を生きる」ということである。
昨日を悔やんでばかりいても何も生まれない。明日を恐れてばかりいても前へ進めない。大切なのは、今、この瞬間に何をするかである。
胸の中に、沈まぬ太陽を持つことだ。
どれほど苦しくても、志を消さない。どれほど世の中が乱れても、祖国を思う心を失わない。先人への感謝を胸に、自分が正しいと思う道を歩き続ける。
その心が焔となる。
焔は、他人を焼くためのものではない。自分の怠惰を焼き、自分の迷いを焼き、自らの魂を照らすためのものである。
宮司は、大東亜戦争で散華された英霊に申し上げたい。
あなた方が愛した日本は、今もここにあります。
あなた方が守ろうとした家族の暮らしも、故郷の山河も、日の丸も、今なおこの国にあります。
だからこそ、我々はその大恩を忘れてはならない。
英霊への感謝とは、過去に頭を垂れるだけではない。その志を今に受け継ぎ、自分自身が立派に生きることである。
胸に沈まぬ太陽を抱け。
焔の如く、今を生きよ。
それが、先人から命を受け継いだ我々の責務であり、英霊に捧げる最も真摯な慰霊の誠である。
宮司は、そう信じている。
