朝、宮司は13kmを歩く修行を終え、まだ参拝者の訪れぬ境内に、箒の音だけが静かに響く時間を持つ。足はすでに重く、汗も引かぬうちに、散った木の葉を一枚ずつ拾い集めながら、宮司は思う。この掃除は、誰かに見せるための行いではない。
歩き終えた足を休めることなく箒を持つのは、意地を張っているからではない。歩くことと掃くことは、宮司にとって同じ一つの根から発する修行である。誰も見ていない道を一人黙々と歩き、誰も見ていない境内を一人黙々と清める。この二つの行いに共通するのは、成果を誇示する相手がいないという点である。見る者のない場所でこそ、人は自らの本当の姿と向き合わされる。
日本の神道において、清めるという行為は、単なる清掃作業として片づけられるものではなかった。祓い清めるという思想は、目に見える汚れを取り除くことにとどまらず、目に見えぬ穢れ、すなわち心の乱れを祓い、本来の澄んだ状態へと立ち返る修行として位置づけられてきた。全国の神社では、半年ごとに大祓という神事が執り行われる。人形と呼ばれる紙の形代に自らの罪や穢れを託し、これを水に流すことで、知らず知らずのうちに積もった心の曇りを祓い清めるのである。日々の掃除もまた、この大祓の精神を日常のなかで実践する、小さな祓いにほかならない。
社殿の縁の下、手水舎の裏、誰も気に留めぬ石段の隅。そうした場所を丁寧に清めることこそが、神職にとっての日々の修行の中心にある。
古くから、日本には「陰徳あれば陽報あり」という言葉が伝えられてきた。
人知れず積んだ徳には、必ずそれにふさわしい報いが訪れる。
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この言葉の値打ちは、報いを目当てに徳を積むことを勧めているのではない。むしろ逆である。報いを期待せず、誰にも知られぬまま行う善こそが、真の徳であるという教えなのである。見返りを求めた瞬間に、その行いは陰徳ではなくなる。宮司は、この言葉を胸に、朝の掃除に向き合っている。
現代社会では、成果や評価は目に見えるところに集中しがちである。人前での振る舞い、見栄えの良い実績、評価される場面での努力。そこに力を注ぐことは、決して間違いではない。もちろん、人前での礼節や身だしなみを整えることも大切である。それを否定するものではない。だが宮司は問いたい。誰も見ていない場所での自分の姿は、果たしてどうであろうか。写真に残らぬ13キロの道のりを、人はどれほど誠実に歩いているだろうか。
二宮尊徳は、荒れ果てた田畑を一つひとつ丁寧に立て直しながら、小さな行いの積み重ねこそが大きな徳を築くのだと説いたと伝えられている。積小為大。小さきを積みて大となす。大きな成果も、誰にも見られぬ小さな行いの積み重ねの上にしか築かれない。掃除とは、まさにこの積小為大を、最も身近な形で体現する修行である。
見えないところを清める人は、見えるところでも自らを偽らない。逆に、見える場所でしか整えぬ人は、見えぬところで必ず乱れる。この単純な法則を、宮司は長年の神明奉仕のなかで幾度も確かめてきた。心の姿勢は、必ずどこかで形となって現れるのである。
掃除は、単なる作業ではない。
箒を持ち、雑巾を絞り、床を拭くという行為の一つひとつに、心を込めることができる。心が乱れているときに掃除をすれば、その乱れがそのまま箒の運びに現れる。逆に、丁寧に掃除をすることによって、乱れた心が静かに整っていくこともある。行為と心とは、切り離せぬ一体のものである。歩くこともまた同じである。足取りが乱れているとき、心もまた乱れている。一歩一歩を丁寧に踏みしめることは、箒を丁寧に運ぶことと、少しも変わらない。
家庭においても、これは同じである。誰も見ていない子供部屋の隅、来客のない日の玄関、家族しか通らぬ廊下。そうした場所を丁寧に整える親の姿を、子供は言葉にせずとも見て育つ。誰も褒めぬ日課を、何年も黙って続ける後ろ姿こそが、言葉よりも雄弁な教えとなる。躾とは、言葉で教えることの前に、日々の行いを通して伝わるものである。
宮司は今日も、13キロの道のりを歩き終えたその足で、誰に見せるためでもなく、境内の隅々を清めたいと願う。それは、社を美しく保つためだけの行為ではない。自らの心を祓い、日々新たに整えるための、静かな祈りである。
見えないところを清める人が、一人また一人と増えていくこと。それこそが、この国の品格を、根の深いところで支える力となるのではないだろうか。
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