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稲むらの火に学ぶ。備えは祈りの形である

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安政元年、紀伊国広村を大きな地震が襲った。揺れがおさまった後、村の長老であった濱口梧陵は、沖合の海の様子から津波の襲来を直感した。日はすでに暮れかけ、逃げ遅れた村人たちを高台へ導く時間は残されていなかった。梧陵は、収穫したばかりの稲むらに次々と火を放った。燃え上がる炎を頼りに、村人たちは暗闇のなかを高台へと駆け上がり、多くの命が救われたと伝えられている。

この「稲むらの火」の逸話を、宮司は防災という言葉を考えるたびに思い起こす。梧陵の行動は、単なる咄嗟の機転ではなかった。日頃から地形を知り、津波の恐ろしさを心に刻んでいたからこそ、あの一瞬に正しい判断を下すことができたのである。備えとは、平時における静かな祈りの積み重ねなのである。

神道には、古くから荒魂と和魂という考え方がある。同じ神が、二つの異なる相をもって現れるという教えである。恵みの雨を降らせ、豊かな実りをもたらす穏やかな働きを和魂という。それに対し、荒れ狂う嵐、揺れ動く大地、猛り狂う波となって現れる激しい働きを荒魂という。この二つは、別々の神の仕業ではない。同じ一つの神威が、時に和やかに、時に荒々しく現れるのである。宮司は、この教えのなかに、自然災害というものへの、日本人らしい向き合い方を見る。災いを、恵みとまったく無縁な理不尽としてのみ捉えるのではない。むしろ、恵みをもたらすのと同じ力が、荒ぶることもあるのだと知ったうえで、深い畏れと敬いをもって、日頃から備えるのである。

古く中国の書経に、「備えあれば憂いなし」という言葉がある。

備えのある者には、憂うべきことが起こらない。

この言葉は、単に物を蓄えよという教えにとどまらない。憂いをなくすのは、備えそのものではなく、備えることによって養われる心の落ち着きである。何が起きても対応できるという静かな自信こそが、いざというときに人を惑わせず、正しい判断へと導く。梧陵があの一瞬に迷わず火を放てたのは、まさにこの落ち着きがあったからにほかならない。

この教えを、言葉としてだけではなく、石に刻んで後世へ残した人々もいる。岩手県宮古市の姉吉という集落は、明治二十九年と昭和八年、二度にわたって大津波に襲われ、そのたびに集落のほとんどが失われた。わずかに生き残った人々は、集落を高台へ移し、津波が到達した地点に一つの石碑を建てた。そこにはこう刻まれている。「此処より下に家を建てるな」。平成二十三年、東日本大震災の大津波が三陸の沿岸を襲ったとき、この地に押し寄せた波は、まさにその石碑のすぐ手前で止まったという。二度の惨禍を経て刻まれた、たった一行の戒めが、百年近くの歳月を超えて、後の世代の命を守ったのである。

宮司は、この逸話に触れるたびに、備えるということの本当の重みを思い知らされる。備えとは、一代限りの用心ではない。自らが経験した惨禍を、次の世代、そのまた次の世代へと、形を変えてでも伝え続けようとする、祈りにも似た意志なのである。

祈りとは、ただ手を合わせることだけではない。宮司はかねてより、祈りとは行動を伴う実践であると考えてきた。手を合わせるその心に、命を守るための小さな備えが添えられたとき、祈りは確かなかたちとなるのである。

避難場所を確認すること。非常用の水と食料を蓄えること。家族との連絡方法を決めておくこと。これらは決して大げさなことではない。日常のなかで少しずつ整えていける、小さな備えである。だが、こうした小さな備えの一つひとつが、いざというときに、大切な人の命を守ってくれる。

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もちろん、備えたからといって、災害そのものを防ぐことはできない。自然の力の前に、人はあまりにも小さい。だが、その小ささを認めるからこそ、できる限りの備えを尽くす謙虚さが生まれる。備えとは、自然への畏れと、命への責任とが重なり合う場所にある行いなのである。

防災は、一人で背負うものではない。地域の皆で支え合うものでもある。梧陵が救ったのは、自分の家族だけではなかった。村全体の命であった。姉吉の人々が石碑を建てたのもまた、自分たちの子孫だけでなく、その土地に生きるすべての人々への祈りであった。日頃からの近所付き合い、地域の避難訓練への参加、高齢者や子供への気配り。そうした一つひとつのつながりが、いざというときに大きな力となる。

家庭においても、防災について話し合う時間を持つことは、それ自体が一つの祈りの実践である。子供に避難経路を教え、非常持ち出し袋を共に確認する。そうした営みを通じて、命の重さと、家族を守るという責任を、次の世代へ静かに手渡していくことができる。姉吉の石碑が幾世代もの命を守ったように、私たちの小さな言葉かけもまた、いつか誰かの命を守ることになるかもしれない。

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宮司もまた、あらためて備えの大切さを胸に刻みたいと思う。稲むらに火を放った一人の男の判断が、多くの命を救った。石に一行の言葉を刻んだ人々の意志が、百年後の命を守った。私たちもまた、日々の小さな備えを通じて、いざというときに誰かの命を守る一人になれるかもしれない。

備えあれば憂いなし。この古い言葉を胸に、できることから、小さな備えを一つ、静かに始めたい。

皆さまとご家族が、どうか穏やかな日々を重ねてゆかれますように。宮司も、心からお祈りしております。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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