大地の恵みをいただく心。身土不二と春の食が育む日本人の魂

早春、まだ残寒の漂う土の隙間から、蕗の薹が顔を出す。
その小さな緑の芽吹きに、日本人は長い間、春の到来を感じてきた。摘んで天ぷらにすれば、ほろ苦い香りが口いっぱいに広がる。あの苦みは、冬の間じっと地中に蓄えられたエネルギーの凝縮であり、大地が命を再び動かし始めたことの証である。宮司は、その一皿を前にするとき、単に食事をしているのではないと感じると言う。大地と向き合い、季節と対話し、命のサイクルの中に自らを置いているのだと。令和8年の今日、私たちの食卓は豊かである。年間を通じて何でも手に入り、産地を問わず、旬を問わず、食べたいものを食べられる環境が整っている。しかしその豊かさの中で、何か大切なものが薄れていないだろうか。宮司はその問いを、静かに胸に抱いている。
「身土不二」という言葉がある。身体と土地は二つにして一つ、という意味である。自分が生まれ育った土地で育まれたものを食べることが、心身の健康にとって最も自然であるという思想だ。この考えは仏教や儒教の影響を受けながらも、日本人が長い歴史の中で生活の知恵として積み重ねてきたものである。日本の国土は四季の変化が豊かで、各地にそれぞれの気候と土壌に根ざした固有の食文化が育まれてきた。山の幸、川の幸、海の幸。それぞれの土地で生きる人々が、その土地の恵みを受けて命を繋いできた。これは単なる食の話ではない。人と大地との間に結ばれた、深い契約である。
宮司は、この身土不二の精神が現代において見直されるべき時が来ていると考えている。グローバル化が進み、食もまた世界規模で均質化される時代にあって、自らの足元の土地を知り、その恵みに感謝することは、日本人としての根を持つことに直結する。根のない木は嵐に倒れる。根のない人間もまた、時代の波に翻弄されるだけである。
日本人は食事の前に「いただきます」と手を合わせる。この言葉の意味を今一度、深く考えてみたい。「いただく」とは、頭上に掲げて謹んで受け取る、という意味である。食べるということは、植物の命を、動物の命を、大地の恵みを、自分の命の中に受け入れることだ。そこには本来、深い畏れと感謝がなければならない。神道では、食は神事と切り離せない。神前に供えるお供え物は、神と人とをつなぐ媒介であり、神に捧げたものを後に人がいただく「直会(なおらい)」の行為には、神の恵みを身体に取り込むという神聖な意味がある。日本人の「いただきます」には、こうした神道的な感覚が自然に染み込んでいるのである。宮司は、現代の日本人がこの感覚を取り戻すことを願っている。形式的な挨拶ではなく、本当に命をいただいているという実感を持って食卓に向かうこと。それだけで、食事の意味は一変する。そして心が変われば、自ずと身体も、生き方も、変わっていく。
春の野菜には、特別な力がある。蕗の薹、筍、独活(うど)、芹(せり)、薺(なずな)、これらの春の草たちは、長い冬を耐え忍んだ後に大地から押し出される、凝縮された命の結晶である。その苦みやアクは、毒ではなく生命力の発露だ。現代人はその苦みを嫌い、アク抜きを徹底し、食べやすく均質な味に整えることを好む。しかし宮司は、少しの苦みこそが、季節との対話であると語る。苦みを受け入れること。それは、人生の苦みを受け入れることの練習でもある。逆境も、試練も、思い通りにならない日々も、丸ごと受け入れて生きる。その精神は、旬のものをそのままいただく食の作法の中にも宿っている。
令和8年の四月、宮司は改めて日本人に問いかける。あなたは今、何を食べているか。どこの土地のものを、誰の手によって育てられたものを、口にしているか。その食べ物に感謝の念を持っているか、と。大和心は、壮大な哲学書の中だけに宿るのではない。日々の食卓の上にも、確かに宿っている。春の一皿に手を合わせるとき、あなたはすでに大和の民として、この国の大地と繋がっているのである。
食を通じて大和心を育むために
その一 旬のものを、産地を意識して選ぶこと。身土不二の実践は今日から始められる。
その二 「いただきます」を形式ではなく、本当の感謝の言葉として使うこと。
その三 苦みや渋みを避けずに味わうこと。季節の恵みをそのまま受け取る謙虚さが魂を育てる。
その四 食卓を、家族や仲間と命の恵みを分かち合う神聖な場として大切にすること。
