沈みし大和は、いまも問いかける。呉に甦る記憶と日本人の魂

海の深さは底知れない。表面は時に穏やかに、時に荒れ狂って見えるが、その下、何百メートル、何千メートルの暗闇の中には、人の手の届かぬ静謐の世界が広がっている。広島県呉市にリニューアル開館した大和ミュージアムに、東京計器という会社が戦艦大和の操船シミュレーターをはじめとする最新の舶用機器を寄贈したという報せが、4月23日に伝えられた。宮司はこの一報に、海の底に眠るものたちの存在を、改めて深く感じざるを得なかった。戦艦大和が東シナ海の海底に沈んでから、八十年余の歳月が流れている。しかしその鉄の艦底には、いまもなお、二千数百名の若き乗組員たちが眠り続けている。その存在を、令和を生きる日本人が忘れ去ってよいはずがない。

戦艦大和は、昭和16年12月、世界最大級の戦艦として竣工した。基準排水量六万四千トン、全長二百六十三メートル。その姿は、当時の日本の造船技術の粋を集めた、まさに国の誇りであった。しかしこの巨艦が真にその名を歴史に刻むこととなったのは、昭和20年4月の沖縄特攻、いわゆる天一号作戦においてであった。司令官の伊藤整一中将は、勝算なき出撃命令に対し、当初これを拒んだという。しかし「一億総特攻の魁となれ」という最終的な命令を受け、伊藤中将は静かに頷き、艦と共に海に沈むことを選ばれた。その直前、伊藤中将は若い士官たちに向かって、こう語ったと伝えられている。「我らは最後の日本男子の本分を尽くすのみである」と。中将自身も、艦橋から退避せず、大和と運命を共にされたのである。

宮司は、戦艦大和の歴史を語るとき、決して武勇譚として語らない。むしろこれは、悲しみと祈りの物語である。乗組員の多くは10代、20代の若者たちであった。彼らには故郷があり、母があり、許嫁があり、そして日本という祖国があった。彼らは死にたくて死んだのではない。生きたかった。しかし時代の波は、彼らに別の選択を許さなかった。坊ノ岬沖で米軍機の波状攻撃を受け、最期の時を迎えるその瞬間まで、若者たちは持ち場を離れず、ただ自らの本分を尽くしたのである。鉄の鋼板の隙間から、海水が鉛色の渦を巻いて押し寄せる中、最後まで操舵輪を握り続けた者がいた。最後まで主砲の塔に立ち続けた者がいた。日本という国の誇りを、自らの命と引き換えに守ろうとした者たちが、確かにそこにいたのである。

そして令和8年の今、その記憶を後世に伝える施設が、新たに姿を変えて開館した。大和ミュージアムである。広島県呉市は、かつて日本海軍の一大拠点として栄えた港町であり、戦艦大和もこの地で建造された。その縁の地に、当時の操船シミュレーターまでが寄贈されたという事実に、宮司は静かな感動を覚える。シミュレーターは単なる機械ではない。それは若き士官たちが命を懸けて操っていた操舵輪の、技術的記憶の継承である。シミュレーターの操舵輪に手を置いた者は、否が応でも、80年前の若者たちの手のぬくもりを、技術の連続性を通じて感じ取ることになるであろう。これは博物館の展示というよりも、ひとつの祈りの装置である。

しかし宮司は、いま日本の若者たちが、果たして大和ミュージアムを訪れて何を感じ取ってくれるだろうかと、案じてもいる。戦争を「悪」とのみ教えられてきた戦後教育の中で、日本人は自国の戦没者に手を合わせる作法すら、まともに伝授されてこなかった。靖国神社に参ることは「危険な行為」と教えられ、戦死者への感謝の言葉を口にすることが「軍国主義への賛美」とされた時代が、長く続いた。しかしそれは、人間として最も自然な、亡き人への手向けの心まで奪い去ろうとする、極めて歪んだ思想であった。命を懸けて祖国を守ろうとした若者たちに対し、後の世を生きる者が「ありがとう」と一言を捧げることが、なぜ罪となるのか。なぜ恥ずべきことになるのか。

戦艦大和は東シナ海の暗い海底に、いまも横たわっている。鉄は錆び、形は崩れ、しかしそこに眠る二千数百名の御霊は、決して朽ちることはない。彼らは令和を生きる我々を、海の底から静かに見守ってくださっている。彼らの犠牲の上に、戦後80年余の平和な日本があることを、我々は決して忘れてはならぬ。大和ミュージアムを訪れる若者たちよ、そこにある鉄の塊や精緻な模型を前にして、ただ「すごい」と言うだけではなく、その奥に眠る一人ひとりの若者の顔を、静かに想像してほしい。彼らはあなた方とほとんど変わらぬ年齢で、祖国のために命を捧げたのである。歴史を学ぶとは、知識を得ることではない。亡き人に手を合わせることであり、その魂と対話することなのである。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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