大雨の戒め。濡れる覚悟が、令和の心を救う

人の一生には、晴れの日ばかりが続くものではない。思いがけぬ雨に打たれる日がある。避けようとしても避けられぬ悲しみがあり、逃げようとしても逃げ切れぬ苦難がある。病、別れ、失敗、裏切り、災害、そして国家を揺るがす時代の荒波。人はそのたびに、なぜ自分だけがと嘆き、どうしてこうなったのかと天を仰ぐ。
しかし、葉隠は静かに教えている。
俄雨にあって、濡れまいとして走り、軒下を探しても、濡れる時は濡れる。ならば初めから思い切って濡れるがよい。濡れることは同じでも、心の苦しみは違うのである。
これは、単なる雨の話ではない。人生そのものの心得である。
宮司は、この言葉を読むたびに、人間の弱さと強さを思う。人は災難そのものに苦しむだけではない。災難を拒み、現実を呪い、過ぎたことを何度も心の中で蒸し返すから、さらに苦しむのである。雨はすでに降っている。衣はすでに濡れている。それでもなお、濡れたことを恨み、空を責め、道を責め、人を責めているうちに、心まで冷え切ってしまう。
令和の世は便利になった。雨雲の動きも手のひらで見える。人と人とは瞬時につながり、欲しいものはすぐ届く。だが、その便利さの中で、人はかえって不意の出来事に弱くなってはいないか。少しの不快に耐えられず、少しの批判に崩れ、少しの不運に人生全体を否定してしまう。守られることに慣れすぎた心は、いざ本物の雨に遭ったとき、立ち尽くしてしまう。
大切なのは、雨を好きになることではない。苦難を美化することでもない。濡れる時は濡れると腹をくくり、その中でなお足を前へ出すことである。
人は失ったものばかりを数える時、心の柱を失う。だが、起きたことは起きたこと、過ぎたことは過ぎたこととして受け止める時、そこに初めて道が開ける。悲しみの中にも学びがあり、不遇の中にも鍛錬がある。病に倒れて知る命の尊さがあり、別れを経て知る縁のありがたさがある。人生に無駄な雨はない。濡れた者にしか見えぬ景色が、必ずある。
これは個人の問題にとどまらない。国家もまた同じである。
今の日本は、内外に多くの雨雲を抱えている。災害、経済の不安、少子化、国防、教育、そして日本人の誇りの喪失。これらを見ぬふりして軒下に隠れていても、国は濡れる。誰かが何とかしてくれるだろうと逃げ回っているうちに、衣どころか、国の背骨まで冷えてしまう。
だからこそ、令和の日本人には覚悟が要る。
雨が降るなら、濡れて立て。風が吹くなら、風の中で根を張れ。苦難が来るなら、それを避けることばかり考えず、そこから何を学び、何を守り、何を次の世代へ渡すのかを考えよ。
宮司は、神前に立つたびに思う。人間の本当の強さとは、何も起きない平穏の中にあるのではない。思いがけぬ大雨の中で、なお心を乱さず、顔を上げ、歩みを止めぬところにある。
雨が降るもよし。晴れるもよし。
濡れた衣は、やがて乾く。だが、雨の中で鍛えられた心は、一生の宝となる。
令和の世を生きる我々は、今こそ葉隠のこの一語を胸に刻まねばならぬ。じたばたせず、嘆きすぎず、逃げ惑わず、受け止めて立つ。
その覚悟こそが、人を強くし、家を守り、国を甦らせるのである。
