『大学』を素読する。明徳を明らかにせよ

今日より、宮司は『大学』の素読に入る。
『大学』とは、ただ大学生のための書ではない。年齢を重ねた者のための書でもない。真に大人となるための学である。
大人とは、体の大きい人のことではない。地位ある人のことでもない。徳を修め、心を正し、己の生きる道を明らかにした人のことである。
大学の道は、明徳を明らかにするに在り。
この一語に、人間の学問の根本がある。明徳とは、己の内に天より授かった徳を明らかにすることである。言い換えれば、自己の確立である。
人は皆、それぞれに役目を持って生まれている。だが、その役目は、欲に曇り、怒りに乱れ、世間の評判に振り回されるうちに見えなくなる。だからこそ、学ばねばならぬ。己を修めねばならぬ。心の奥にある本来の光を、もう一度明らかにせねばならぬのである。
令和の世は、知識にあふれている。手のひらの中に世界中の情報が入り、誰もが言葉を発し、誰もが人を裁く時代となった。だが、知識が増えたからといって、人間が立派になったとは限らない。情報を持つ者が、必ずしも智慧ある者ではない。声の大きい者が、必ずしも正しい者ではない。
今の日本に足りないものは、情報ではない。明徳である。
自己の哲学を持たぬ者は、世の風に流される。昨日は右へ、今日は左へ、明日はまた別のものへと動く。そこに信念はない。そこに誠はない。あるのは損得と保身と、その場しのぎである。
『大学』は言う。
物を格して、しかる後に知至る。
知至りて、しかる後に意誠なり。
意誠にして、しかる後に心正し。
心正しくして、しかる後に身修まる。
身修まりて、しかる後に家斉う。
家斉いて、しかる後に国治まる。
国治まりて、しかる後に天下平らかなり。
これは順序である。国を治める前に、まず家を斉えよ。家を斉える前に、まず身を修めよ。身を修める前に、まず心を正せ。心を正す前に、まず意を誠にせよ。そして、その根本に格物致知がある。
物を格すとは、物事を正しく見ることである。偽りを偽りと見抜き、真を真として受け止めることである。自分に都合よく歪めて見ない。世間の空気に合わせて曲げない。真実の前に、己を正すのである。
ここを失えば、人は偽物になる。
政治家が偽物になれば、国が乱れる。教育者が偽物になれば、子が迷う。経済人が偽物になれば、金だけが神となる。宗教者が偽物になれば、人の魂は救われない。家庭の親が偽物になれば、家の柱が折れる。
日本が危ういのは、制度だけの問題ではない。人間の問題である。明徳を忘れ、修身を軽んじ、誠意を失ったところに、国家の衰えが始まるのである。
伊與田覚先生は、古典を読むことの大切さを説かれた。読書百遍、繰り返し繰り返し読むことによって、言葉は血となり肉となる。頭で理解するのではない。声に出し、体に入れ、日々の行いに移すのである。
素読とは、魂の稽古である。
意味を急いで解釈する前に、まず読む。声に出す。背筋を伸ばす。古人の言葉を、己の内に響かせる。そうして初めて、人は目先の利害を超えた大きな道に触れることができる。
二宮尊徳は薪を背負いながら学んだ。中江藤樹は『大学』によって聖賢の道を志した。王陽明もまた、知と行を一つにする道を説いた。偉人たちは、古典を飾り物にしなかった。己の生き方そのものにしたのである。
令和の日本人も、今こそ『大学』に帰らねばならぬ。
学歴ではない。肩書ではない。財産でもない。人間として、どれほど己を修めたか。どれほど誠を尽くしたか。どれほど日本のため、子孫のため、世のために心を正したか。そこが問われている。
明徳を明らかにせよ。
それは、自分勝手に生きよということではない。己の内なる光を明らかにし、その光をもって人に親しみ、家を斉え、国を治め、天下を平らかにするということである。
一人の心が正されれば、一家が正される。
一家が正されれば、地域が正される。
地域が正されれば、国が正される。
国を憂うるなら、まず己を修めよ。日本を甦らせたいなら、まず自分の心を正せ。大きなことを語る前に、今日の一言、今日の行い、今日の祈りを誠にせよ。
『大学』の道は遠くにあるのではない。
今ここにある。
己の心の中にある。
日々の生活の中にある。
令和の世に、明徳の光を取り戻すこと。これこそが、日本再生の第一歩である。

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