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安倍晋三元総理銅像建立

しないとできないは違う。孟子に学ぶ、為す覚悟と日本を動かす力

孟子に「為さざるなり。能わざるに非ざるなり」という言葉がある。

これは、できないのではない。しないだけである、という意味である。実に厳しい言葉である。人は、とかく自分に言い訳をする。時間がない。力がない。才能がない。金がない。人脈がない。世の中が悪い。政治が悪い。時代が悪い。そう言って、自分のなすべきことを遠くへ押しやってしまう。

しかし宮司は思う。人生において、できないことよりも、しないことの方がはるかに多い。

立派なことも、いい政治も、よき家庭も、よき地域も、よき国づくりも、できないという話ではない。為さないだけである。やろうとしない。続けようとしない。責任を引き受けようとしない。面倒なことから逃げる。損をしそうなことを避ける。批判されそうなことを黙ってやり過ごす。そうしているうちに、人も、家庭も、地域も、国も、少しずつ力を失っていくのである。

孟子は、ただ人を責めるためにこの言葉を残したのではない。人間には本来、善を為す力がある。正しいことを知り、弱き者を思い、父母を敬い、恥を知り、義に立つ心がある。その力を、眠らせてはならないと言っているのである。

人は、自分を小さく見積もりすぎることがある。私一人が何をしても変わらない。自分には力がない。社会は大きすぎる。政治は遠すぎる。国のことなど、自分の手には負えない。そう思う気持ちは分からなくもない。だが、その考えこそが、何もしない自分を正当化してしまう。

国とは、遠い霞の中にあるものではない。国とは、一人一人の暮らしの中にある。朝、神棚に手を合わせる心の中にある。家族に挨拶をする言葉の中にある。父母を敬う姿の中にある。地域の道を掃く手の中にある。約束を守る誠の中にある。子供に歴史を伝える声の中にある。困っている人に手を差し伸べる行いの中にある。

だから、国をよくすることは、特別な地位にある人だけの務めではない。政治家だけの仕事でもない。もちろん、政治は大切である。政治が正しくなければ、民の暮らしは苦しくなる。教育も、経済も、外交も、防衛も、国の行く末に深く関わる。しかし、政治をよくする土台は、国民一人一人の心にある。人々の心が怠れば、どれほど立派な制度を作っても、国は弱くなる。

「できない」と言う前に、「本当に為したのか」と問わねばならない。

学べないのではない。学ばないのである。鍛えられないのではない。鍛えないのである。感謝できないのではない。感謝しないのである。親孝行できないのではない。親孝行しようとしないのである。国を思えないのではない。国のことを自分のこととして考えようとしないのである。

人間は弱い。宮司もまた、その弱さを知っている。疲れれば休みたくなる。面倒なことは後回しにしたくなる。困難が見えれば逃げたくなる。批判されれば心が痛む。誰も分かってくれないと思えば、投げ出したくなる。だからこそ、日々の祈りが必要なのである。

神前に立つとは、願いを並べることだけではない。自分の言い訳を神さまの前に置き、これは本当にできないことなのか、それとも自分が為していないだけなのかを問うことである。手を合わせる時、人は裸の心になる。肩書きも、理屈も、世間体も、神前では通用しない。そこに残るのは、自分は今日、何を為すのかという問いだけである。

「為さざるなり」という言葉は、厳しい。しかし、同時に大きな励ましでもある。できないのではない、ということは、為せば道が開くということである。今は小さくとも、一歩を出せば変わる。今日一つ行えば、明日の自分は変わる。家庭で一言、感謝を伝えれば、家庭の空気は変わる。地域で一つ掃除をすれば、地域の景色は変わる。子供に一つ歴史を語れば、その子の心に種が蒔かれる。

大きなことは、小さなことの積み重ねである。よき政治も、よき社会も、よき国も、突然天から降ってくるものではない。一人一人が、今日なすべきことを為す。その積み重ねが、やがて国の背骨となる。

現代の日本人は、情報を多く持っている。知識もある。便利な道具もある。世界中の出来事を、一瞬で知ることができる。しかし、知っていることと、為すことは違う。情報を集めるだけでは、人生は動かない。正論を語るだけでは、社会は変わらない。誰かを批判するだけでは、国は強くならない。

大切なのは、自分が何を為すかである。

政治が悪いと言うなら、自分はどれほど学んだのか。教育が悪いと言うなら、自分は子供に何を伝えたのか。地域が寂れたと言うなら、自分は地域のために何をしたのか。若者に元気がないと言うなら、自分は若者を励ましたのか。日本人の心が失われたと言うなら、自分は今日、日本人として恥じぬ行いをしたのか。

この問いは、他人を責めるためのものではない。自分を正すためのものである。宮司は思う。人は、他人を裁く時には雄弁である。しかし、自分を正す時には急に口が重くなる。だからこそ、孟子の言葉を胸に置かねばならない。

できないのではない。しないだけではないか。

この問いを持つ人間は、強くなる。言い訳が減る。愚痴が減る。人のせいにする心が減る。その代わりに、今日できることを探すようになる。自分の足元を整えるようになる。自分の言葉を慎むようになる。自分の務めを果たそうとするようになる。

安倍晋三元総理は、日本を取り戻すと訴えられた。その言葉は、誰かが勝手に日本を取り戻してくれるという意味ではない。私たち一人一人が、日本人としての誇りを取り戻すということである。歴史を学び、家族を大切にし、祖先に感謝し、世界の中で堂々と立つ心を取り戻すということである。

それは、できないことではない。為すか、為さないかである。

家庭を立て直すことも、できないのではない。為さないだけである。朝の挨拶をする。食卓で感謝を伝える。父母の話を聞く。子供を抱きしめる。先祖の墓に手を合わせる。小さなことである。しかし、その小さなことをしない家庭が増えれば、国の根は弱くなる。

教育を立て直すことも、できないのではない。為さないだけである。子供に日本の歴史を語る。偉人の生涯を伝える。努力の尊さを教える。恥を知る心を育てる。弱い者を助ける心を教える。教師だけに任せるのではない。親も、祖父母も、地域の大人も、それぞれが教育者である。

地域を立て直すことも、できないのではない。為さないだけである。道端のごみを拾う。祭りを守る。神社を清める。隣人に声をかける。困っている人を見捨てない。寂れたと嘆くだけでは、地域は戻らない。人が動いて、初めて地域は息を吹き返す。

国を立て直すことも、できないのではない。為さないだけである。選挙に関心を持つ。歴史を学ぶ。国防を考える。税の使われ方を考える。世界の中の日本を考える。自分の暮らしと国の行く末を切り離さない。国を語るとは、遠い大きな話をすることではない。自分の命が、父母が、子供が、地域が、祖国とつながっていることを自覚することである。

もちろん、人には限界がある。一人で何もかもできるわけではない。病もある。年齢もある。環境もある。置かれた事情もある。だから、できないことを無理に背負えと言っているのではない。大切なのは、できることまで「できない」と言って逃げていないか、ということである。

神さまは、人にそれぞれの務めを与えておられる。若者には若者の務めがある。働く者には働く者の務めがある。父には父の務めがある。母には母の務めがある。高齢の方には、長く生きた者として次の世代を励ます務めがある。小さな務めでよい。その場で、自分に与えられた務めを為すことである。

宮司は思う。日本を甦らせる道は、特別な英雄を待つ道ではない。名もなき一人ひとりが、今日なすべきことを為す道である。人に見られなくても為す。褒められなくても為す。損得を超えて為す。祖先に恥じず、父母に恥じず、子孫に恥じぬように為す。その積み重ねこそが、大和魂である。

「しない」と「できない」は違う。

この違いを知るだけで、人の人生は変わる。できないと言えば、そこで終わる。しないだけだと気づけば、今日から始められる。今日、手を合わせることができる。今日、学ぶことができる。今日、感謝を伝えることができる。今日、掃除をすることができる。今日、誰かを励ますことができる。今日、自分の言葉を正すことができる。

只今が、その時である。明日からではない。状況が整ってからではない。誰かが先に動いてからでもない。自分に与えられた今日という一日を、何に使うのか。その問いに正面から向き合う時、人は初めて立ち上がる。

孟子の言葉は、二千年以上の時を越えて、今の日本人に語りかけている。

できないのではない。為さないだけではないか。

ならば、為せ。今日、為せ。小さくとも為せ。黙って為せ。祈り、心を整え、足元から為せ。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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