倦むこと無れ。慎みて、な怠りそ。日々を続ける者が国を支える

『論語』顔淵第十二に、「倦むこと無れ」という言葉がある。

倦むとは、飽きることである。疲れて嫌になることである。初めは志を立て、胸を熱くして始めたことでも、日が経てば人は倦む。面倒になる。飽きる。疲れる。もうよいではないかと思う。自分一人が続けても仕方がないではないかと思う。そこで手を抜く。そこで怠る。そこで志が痩せていく。

しかし宮司は思う。人生において本当に大切なことは、すぐには実を結ばない。だからこそ、倦んではならないのである。

祈りも同じである。朝に手を合わせる。夕に手を合わせる。神棚を整える。榊の水を替える。境内を掃く。社を清める。誰かが見ているわけではない。褒められるわけでもない。大きな拍手を受けるわけでもない。しかし、その小さな繰り返しの中に、神道の命がある。

神社は、一日で成るものではない。建物を建てれば神社になるのではない。祭祀を続け、清掃を続け、祈りを続け、参詣者を迎え続ける。その積み重ねの中で、神社は生きた場となる。人の心も同じである。大きな決意を一度しただけでは、心は立たない。日々、自分を清め、自分を戒め、自分の務めを果たし続けることで、初めて心は鍛えられる。

日本武尊が東征に向かわれる時、倭姫命は「慎みて、な怠りそ」と言われたと伝えられる。

なんと深い言葉であろうか。慎め。そして怠るな。これは、ただ注意せよという意味ではない。慢心するなということである。油断するなということである。大きな使命を担う者ほど、自分の力に酔ってはならない。勢いに任せてはならない。勝ったと思った時ほど、心を正さねばならない。

人は、困難の最中には案外強い。敵が見えている時、試練が目の前にある時、危機が迫っている時、人は歯を食いしばる。しかし、本当に危ないのは、少し道が開けた時である。少し成果が出た時である。人に褒められた時である。もう大丈夫だと思った時である。その時、人は怠る。気を抜く。心が緩む。そこから崩れが始まる。

「倦むこと無れ」とは、ただ根性論ではない。これは、志を守るための知恵である。

志を立てることは尊い。しかし、志は立てただけでは足りない。守らねばならない。育てねばならない。日々の務めの中で、何度も新しくしなければならない。火は、薪をくべなければ消える。心の火も同じである。昨日の感動だけで、今日を生きることはできない。今日また祈り、今日また学び、今日また働き、今日また一歩を出す。その繰り返しが、人をつくるのである。

現代の人は、すぐに結果を求める。始めてすぐに成果が出なければ、向いていないと言う。少し批判されれば、やめてしまう。飽きれば別のことへ移る。便利な時代である。情報も多い。選択肢も多い。だが、選択肢が多すぎる時代ほど、一つのことを続ける力が弱くなる。

宮司は、若い人たちに伝えたい。何か一つ、続けるものを持て。学びでもよい。仕事でもよい。武道でもよい。掃除でもよい。祈りでもよい。親孝行でもよい。小さなことでよいから、倦まずに続けよ。続ける中でしか見えない景色がある。続ける中でしか身につかない力がある。続ける中でしか授からない御縁がある。

才能は大切である。しかし、才能だけでは人は成らない。熱意も大切である。しかし、熱意だけでは続かない。大切なのは、日々の務めを淡々と果たす力である。雨の日も、晴れの日も、褒められる日も、叱られる日も、気分が乗る日も、乗らない日も、やるべきことをやる。その静かな積み重ねこそ、本当の修行である。

国づくりも同じである。

日本をよくしたい。日本を甦らせたい。日本人の誇りを取り戻したい。そう願う心は尊い。しかし、その願いも、日々の行いに結ばれなければ力にならない。国を思うと言いながら、家庭を粗末にしていてはならない。歴史を語りながら、父母に感謝しないのではならない。神社を大切にせよと言いながら、自分の足元を清めないのではならない。

国家とは、日々の暮らしの積み重ねである。家庭があり、地域があり、学校があり、職場があり、神社があり、祭りがあり、先祖への感謝がある。その一つ一つを怠らないことが、国を支えることである。大きなことを語る前に、小さな務めを果たすことである。

安倍晋三元総理は、日本を取り戻すと訴えられた。その御志は、一時の熱狂で終わらせてはならない。選挙の時だけ思い出すものでもない。報道を見た時だけ胸を熱くするものでもない。日々の暮らしの中で、私たち一人一人が受け継がねばならないものである。

日本を取り戻すとは、家庭を取り戻すことである。教育を取り戻すことである。祖先への感謝を取り戻すことである。神前に手を合わせる心を取り戻すことである。言葉を大切にすることである。責任を果たすことである。怠らず、倦まず、慎みをもって続けることである。

宮司は思う。大きな志ほど、静かな継続を必要とする。

銅像を建立することも、一日の思いつきでできるものではない。祈りがあり、準備があり、御縁があり、支えてくださる方々の真心があり、困難を越える忍耐があり、ようやく形となる。形になったら終わりではない。そこからまた守り続けねばならない。清め続けねばならない。参詣者を迎え続けねばならない。祈り続けねばならない。

これは、人生すべてに通じる。

結婚も、子育ても、仕事も、学問も、信仰も、国を思う道も、始める時より続ける時の方が難しい。始める時には勢いがある。人も注目する。自分の心も燃えている。しかし、続ける時には孤独がある。地味さがある。疲れがある。誰にも見られない時間がある。その時に、倦むこと無れ、なのである。

誰も見ていなくても、神さまは見ておられる。誰も褒めなくても、祖先は見ておられる。今日の小さな務めは、明日の自分をつくり、次の世代への道をつくる。無駄な一日はない。無駄な祈りはない。無駄な掃除はない。無駄な学びはない。真心をもって続けるならば、それは必ずどこかで実を結ぶ。

ただし、続けるとは、惰性で同じことを繰り返すことではない。慎みが必要である。倭姫命の「慎みて、な怠りそ」は、ただ怠るなと言うだけではない。慎めと言っている。自分の心を見よ。慢心していないか。人を見下していないか。慣れによって雑になっていないか。祈りが形式だけになっていないか。言葉が軽くなっていないか。務めがただの習慣になっていないか。

継続には、清めが要る。毎日同じことをしているようで、毎日新しい心で向き合うことである。昨日の祈りに頼らず、今日の祈りを捧げる。昨日の努力に甘えず、今日の務めを果たす。昨日の反省を忘れず、今日の一歩を正す。これが、怠らぬということである。

令和の時代は、飽きることを誘う時代である。次から次へと情報が流れる。昨日の話題は今日には古くなる。人の関心はすぐに移る。短い言葉が広がり、すぐに忘れられる。その中で、一つの志を守り続けることは容易ではない。

だが、容易でないからこそ価値がある。

神社の境内を掃くように、心を掃け。榊の水を替えるように、志の水を替えよ。御幣を振り清めるように、日々の怠りを祓え。手を合わせるたびに、自分に問え。私は倦んでいないか。私は怠っていないか。私は慎みを忘れていないか。

人は、何度でも立て直せる。昨日怠ったなら、今日から正せばよい。昨日倦んだなら、今日また始めればよい。大切なのは、怠った自分を責め続けることではない。怠りに気づいたなら、すぐに心を整え、もう一度務めに戻ることである。

宮司は、長く生きてきて思う。人生を動かすのは、一度の大きな決断だけではない。むしろ、誰にも見えない小さな継続である。毎日の祈り。毎日の挨拶。毎日の掃除。毎日の学び。毎日の感謝。その積み重ねが、人の背骨をつくる。国の背骨をつくる。

「倦むこと無れ」

この言葉は、静かである。しかし、強い。派手ではない。しかし、深い。人を煽る言葉ではない。人を整える言葉である。

慎みて、な怠りそ。

この言葉もまた、令和の日本人への大きな戒めである。便利さに甘えるな。豊かさに溺れるな。平和に慣れきるな。祖先の苦労を忘れるな。国の行く末を他人任せにするな。家庭を、地域を、神社を、教育を、歴史を、日々の務めを怠るな。

今日、何を続けるのか。今日、何を怠らないのか。今日、どの心を慎むのか。その問いを持って一日を始める者は、必ず強くなる。

宮司はこの初夏、倦むことなく、一つのことをやり遂げた。その歩みを支えてくださったすべての皆様に、心より感謝申し上げる。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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