家計の支払いを済ませ、家族の食事を整え、ようやく腰を下ろす。そのような一日の終わりに、国の将来まで考える余力が残らぬこともあるだろう。人は何のために生きるのか。重い問いだが、それを考える時間さえ持てずにいる方々の暮らしから、宮司は考え始めたい。
日々をつなぐために働く。その営みには、言葉で飾る必要のない尊さがある。疲れた体で家族の帰りを待つことにも、誰にも知られず約束を守ることにも、人としての誠は宿っている。
宮司は、その足元から学ばせていただきたいと思う。哲学を語る者が、暮らしの重みを忘れてしまえば、その言葉は人を支える力を失う。
どうか、難しい言葉を知らないことで、ご自分を小さく思わないでください。
哲学とは、宮司にとって、自分が何を大切にして生きるのかを、繰り返し確かめる営みである。金に困ったときにも、褒められたときにも、恐ろしい目に遭ったときにも、できれば手放さずにいたいもの。それを心の奥に尋ねることである。
なぜ、あのとき頭を下げてまで家族を守ったのか。なぜ、誰も見ていない場所で落とし物を届けたのか。なぜ、亡き父母の名を思い出すと、いい加減には生きられぬと感じるのか。そこには、すでに一人ひとりの哲学の芽がある。
その芽を、自分の言葉で育てておきたい。そうすれば、利益と引き換えに大切なものを差し出すよう求められたとき、立ち止まる場所になる。
暮らしには金が要る。商いには利益が要る。政治には選挙がある。いずれも現実であり、軽く扱うことはできない。ただ、利益を何のために得るのか、当選して誰の暮らしを守るのかという問いが抜け落ちると、手段が人生や政治の行き先を決めるようになる。
宮司は、そこに深い危うさを感じる。
目先の利益を受け取ることで、後に何を断れなくなるのか。目の前の争いを避けることで、誰に重荷が渡るのか。今は便利でも、子供たちの選べる道を狭めてはいないか。哲学は、その問いを生む。戦略は、守りたいものを現実に守るための道筋を考える。
願いを抱き、道筋を考え、足元で働く。この三つを結び直すことが、人にも国にも必要なのだと思う。
中国共産党との関係を考える際にも、宮司は、日本が何を守る国でありたいのかを、まず自分たちに問いかけたい。相手を嫌うだけでは、こちらの判断の軸は育たない。友好という言葉だけでも、自由や暮らしを守る責任を果たしたことにはならない。
交流を大切にする。そのうえで、受け入れることと断ることを、自分たちの責任で判断する。相手の国の人々への敬意を保ちながら、政治権力の働きには慎重な目を向ける。その両方を支える、静かな芯を持ちたいのである。
その芯を、他者より優れているという思いに求めたくはない。
宮司が大切にしたいのは、預かったものへの責任である。この命も、言葉も、田畑も、町も、自分一人で生み出したものではない。顔も名も知らぬ人々の働きが、食卓の一椀にまで届いている。その連なりに気づけば、自分の都合だけで決めてよいことには、おのずと限りが見えてくる。
宮司は「中今」を、そのように受け止めている。過去から受け取ったものを、この身の働きを通して未来へ渡す。遠い時代を語るための言葉であると同時に、目の前の一人を粗末にしないための言葉でもある。
受け継ぐものには、改めるべきものもある。苦しかったからこそ、子供には同じ苦しみを負わせたくない。その願いもまた、先人への真摯な応答であろう。感謝して受け取り、よく見つめ、少しでもよい形にして手渡す。そこに、継承する者の働きがある。
そして宮司は、この問いを自らの素心へ返したい。
国のため、人のためと口にしながら、自分の評判を守ろうとしてはいないか。正しさを説くことで、目の前の人の苦しみを見失ってはいないか。神職の装束を身につけたからといって、その迷いから自由になるわけではない。宮司もまた、頭を垂れ、自分の心を確かめる側にいる。
素心に立ち返るとは、立派な自分を示すことよりも、心に混じった見栄や恐れを認めることから始まるのだと思う。認めることができれば、謝ることも、学び直すこともできる。人の意見を聞きながら、自分の責任で判断する力も、そこから育っていく。
そのために、教育を大切にしたい。
子供に「何のために生きるのか」と尋ねるなら、大人もまた、答えに迷う姿を隠さずにいたい。進路や職業をすぐに決めさせるための問いにせず、何をしていると心が動くのか、誰のどのような姿に憧れるのか、ゆっくり聞いてみる。子供の言葉によって、大人の生き方が問い直されることもあるだろう。
まだ答えが見つからなくても、急いで立派な志を掲げる必要はありません。
志は、傷ついた経験から生まれることもある。助けてもらった記憶から育つこともある。自分には大きなことはできないと思っていた人が、身近な誰かを支える中で、生涯をかけたい仕事に出会うこともある。
そうした芽が育つ余地を守ることも、政治の責任ではないだろうか。働いても暮らしが落ち着かず、学びたくても機会が乏しく、声を上げても届かない。その苦しみを、本人の心構えだけに帰すことはできない。人に志を求める社会は、人が志を育てられる暮らしにも責任を持ちたい。
宮司は、祈りをその責任へつなげたいと思う。
神前で家族の安寧を願ったなら、家に帰って家族の話を聞く。子供の未来を願ったなら、その小さな疑問を笑わずに受け止める。国の平安を願ったなら、耳に心地よい言葉だけで判断せず、政策や行動を確かめる。一人では届かぬことには、人と力を合わせる。
祈りが日々の所作に移るとき、心の中にある哲学は、暮らしを支える働きになる。
宮司が願う日本は、声の大きな者だけが行く先を決める国ではない。黙って働く人の誠が報われ、弱っている人にも居場所があり、子供が自分の言葉で未来を語れる国である。その願いのために何を選び、何を改め、何を引き受けるのか。宮司もまた、答えを求め続けたい。
疲れた夜には、まず温かなものを口にしてほしい。心に少し余白が戻ったら、自分が守りたいものを一つ、思い浮かべてみる。その小さなものを大切にするところから、人の生きる哲学も、国の進む道も、確かな根を下ろしていくのだと信じている。
皆さまの日々のご苦労が、あたたかな理解に包まれますように。大切なものを守りながら、それぞれの歩幅で歩んでいけますように。宮司も、心からお祈りしております。