老いることは、深まることだ

宮司は今年で85歳を迎える。かつての宮司の周囲では、80歳を超えて社会の第一線に立ち続ける人間は珍しかった。しかし今、宮司の目の前には、80代、90代を生きる人々の姿が至るところに見える。日本は世界有数の長寿国であり、政府は「人生120年」の時代を視野に入れた社会設計を議論し始めている。
長く生きるとはどういうことか。宮司はその問いを、ここ数年、折に触れて考えてきた。
宮司が若い頃に信奉していた時間観は、「限られた時間の中でいかに多くを成し遂げるか」というものだった。警察官として大阪の街を駆け回り、事件の現場に飛び込み、体を張って職務を果たす。その日々の中で、時間は常に有限の、惜しいものだった。しかし今、85年の歳月を経て、宮司の時間の感覚は変わってきた。
老いとは、何かを失っていく過程ではないと宮司は思う。確かに体は衰える。記憶の引き出しを探るのに、若い頃より少し時間がかかるようになった。しかしその代わり、宮司には若い頃には見えなかったものが見えるようになった。人の痛みの深さ。言葉の奥にある沈黙の重さ。自然の移ろいの中に宿る神の気配。これらは、若い体と鋭い頭を持っていた頃には、到底気づくことのできなかったものである。
宮司は、老いとは魂が深まる過程だと今は信じている。水は地を流れるとき、最初は浅く速く流れる。しかし年月を経て、岩盤を刻み、谷を彫り込んでいくうちに、流れは深くなる。深い流れは速くはないが、容量は大きく、濁りにくい。人の魂もそのようなものではないかと宮司は思う。若い魂は速く燃え、鋭く輝く。しかし老いた魂は、静かに深く、多くのものを包み込む。
「人生120年」という言葉を宮司は手放しには喜ばない。長く生きることそのものに意味があるのではなく、長く生きた時間を何で満たすかに意味がある。老いを恐れて若さにしがみつくことも、長い余生を惰性で過ごすことも、宮司にはどちらも本意ではない。最後の一日まで、自らの魂を磨き続けること。誰かの役に立ち続けること。天地に恥じない生き方を貫くこと。それだけが、長寿という贈り物への、誠実な応え方だと宮司は思う。
宮司は今日も、信州の山里の社を掃き清め、神に祈りを捧げ、訪れる人々と言葉を交わす。その日々の積み重ねが、宮司にとっての老いの深まりである。死を前にして人は清まる、という言葉がある。宮司は、その清まりを今この瞬間から始めることが、老いを生きる人間の本分ではないかと感じている。
