死は天国への里帰り

人は何らかの目的を持ってこの世に生を受ける。そして、自らに与えられた役目を終えたとき、天国へと帰っていく。三歳で逝く命も、百歳を超える長寿を全うする命も、そこに差別はない。人は間違いなく平等に死に向かって歩む存在であり、死なない人間などこの世に一人として存在しない。宮司は、命の価値を長短で測るのではなく、「生きる目的」を果たしたかどうかに真実があると考える。この世で課せられた課題を終え、肉体という名の「借り物」を脱ぎ捨てて魂となり、天空へと舞い上がる。それこそが、神様のもとへ還るという清々しい旅立ちなのだ。
愛する家族との別れに、いつまでも涙に暮れ、めそめそと過ごしてはならない。それでは、天空から見守る祖霊を悲しませることになる。肉体を離れた魂は不滅であり、死後もなお妻や子供たち、愛する人々を慈しみ、見守り続ける存在となる。宮司は、亡くなられた方を「大人命(うしのみこと)」として敬い、その魂を安心させるためにこそ、残された者は明るく元気に振る舞わねばならないと説く。悲しみに沈むのではなく、天国へ帰られたことに安堵し、安らぎを覚える。この人と神との連続性こそが、我が国の伝統である神道の大きな特徴に他ならない。
江戸時代の神職、中西直方は「日の本に生まれ出にし益人は神より出でて神に入るなり」と詠んだ。人は神から分かたれてこの世に現れ、一生を終えれば再び祖先の神々のもとへ帰っていく。宮司は、この「血」と「心」の永遠の連続の中に、日本人の生命の本質を見出す。霊魂は滅びることなく、わが家、わが郷土、わが国に留まり、祖神と共に子孫の繁栄を見守り続ける。この不滅の精神を引き継ぎ、研ぎ澄ませていくことこそが、我々が未来へ繋ぐべき「大和魂」の真髄である。
いつまでも呆然と立ち止まっていては、天から見守る「大人命」に申し訳が立たない。宮司は、今こそ元気に立ち上がり、亡くなられた人の分まで「強く、明るく、正しく、清く」生きるべきだと念じている。鳥が空を飛ぶのが運命であるように、人は生きている限り、その生きがいの目的を果たすまで生き抜かねばならない。生も死も、すべては神様の深き御心によるもの。愛する人を天に召されたのも、「もう苦しまなくていい」という神様の慈しみである。すべてを「あるがまま」に、神様の「なすがまま」に受け入れる。その潔い精神こそが、日本人の誇りを取り戻し、次世代へと魂の灯火を繋ぐ力となるのだ。
